昭和34年、秋の気配が漂い始めた9月8日。茨城県大子町に一人の男の子が生まれた。名を道也という。
彼の幼少期を彩ったのは、穏やかな田舎の風景とは裏腹な、張り詰めた緊張感だった。それは「家」という名の檻の中にあった。
食卓は、戦場にも似た規律に支配されていた。
「音を立ててすするな」
「口を開いて話すな」
箸の上げ下げ一つに至るまで、鋭い視線が注がれる。その視線の主は、かつて慶應大学医学部で学んだ才女である母だ。しかし、彼女の世界には「音」がなかった。メニエール症候群という病魔が、彼女から聴力を、そして医師への道を奪い去っていたのだ。
幼い道也にとって、母とのコミュニケーションは、唇の動きを読むことではなかった。彼は、伝えたいことがあると『絵』を描いて母に見せていた。言葉では届かない想いも、絵なら母に真っ直ぐに届く。それが彼らにとっての日常会話だった。
母は優しかったが、その躾の厳しさは、自らの失われた夢を埋め合わせるかのように徹底されていた。
そしてもう一人、絶対的な権力者として君臨していたのが父である。
大正、昭和の激動を軍人として生き抜いた父の厳しさは、道也の言葉を借りれば「想像を絶する」ものだった。
後に大学生となった後も、道也が何気なく「行ってきます」と告げた時、父は真顔でこう言い放った。
「学生運動になんか参加してみろ。お前を殺すからな」
冗談ではない。父の目は本気だった。「国家に反逆するような人間に育ったなら、親としてその命を絶つ」。それが、軍人として、そして父としての歪んだ、しかし純粋な責任の取り方だったのだ。
そんな窒息しそうな日々の中で、少年の心に芽生えたのは逃走本能だった。
(ここから出たい。この何もない町から、息の詰まる家から逃げ出したい)
その一心で、彼は水戸の進学校への切符を勝ち取る。しかし、そこで待っていたのは挫折だった。周囲は天才ばかり。勉強では勝てない。
そこで彼が選んだ武器、それが「絵」だった。
なぜ絵だったのか。それは、耳の聞こえない母に、唯一「確実に伝わる言葉」だったからだ。絵筆は、母と息子を繋ぐ架け橋であり、彼が自分自身を証明するための唯一の手段となっていった。
高校時代、一時的に絵筆を置き、サッカーボールを追いかけたこともあった。県大会3位という輝かしい成績を残しながらも、彼はふと冷めてしまう。「所詮、こんなものか」。ある程度極めると先が見えてしまい、飽きてしまう。それは彼の性分だったのかもしれない。
だが、絵画だけは違った。飽きることなく、彼は美大への道を進む。学費が途絶えるという苦境も、恩師の助けを借りて乗り越えた。
彼の視線の先には、日本の田舎も、窮屈な実家も見えていなかった。見えていたのは、海を越えた遥か彼方、情熱の国・スペインだった。